企業情報

1955年
3月10日
造園家 高村弘平により、当社の前身である高村造園株式会社設立。高村造園の立役者山崎正巳との2人からのスタート。
1963年
土地区画整理法、都市公園法、自然公園法など三法が制定され造園行政の後押しで業績は倍々で伸び、売上が1億円の大台に乗った。
1971年
7月28日
事業規模の拡大や後継者の問題などから東急グループの傘下となる。
専務取締役として当時スリーハンドレッドクラブのコース部長であった宮澤長平が着任。
日本列島改造論などの機運に乗り、その後10年で売上は16億円に達するほどになる。(社員数約50名)
1992年
4月1日
東急グリーンシステム株式会社に商号変更。
東急グループとの関わりを一層鮮明に打ち出し、グループ貢献の度合いを深める一方で、グループ外の顧客に対しても東急グループの⼀員であることの誇りと責任を持って、従来にも増してその便益に資する姿勢を表した。
以後、しばらく事業の中心は、ゴルフ場や公園等施設の建設などとなるが、その舞台は全国に広がり、名だたるコースの設計や施工を手がけた。
その後、建設だけでなく緑への関わりをトータルで深めることを目指し、ゴルフコースのメンテナンスや植栽管理に積極的に関わるべく事業を展開する。
1998年
4月1日
持てる技術と経験をより社会に役立て、環境グリーンの維持に深く関わる事業を求めていた当社は、従来より要望のあった⼀般住宅の植栽に着眼し、戸建分譲住宅の外構植栽工事の市場を新たな事業のフィールドとして踏み出すこととした。
まちづくりの提案から個宅の外構植栽工事の設計施工まで、時代を捉えた企画提案、そして高い品質を提供し、多くの事業者様の信頼をいただくまでに育った。
2013年
4月1日
「人と技術が品質を作り顧客に貢献する。」という基本を再確認し、先の20年を見据えたスタートを切る。
次のステージでは、約60年にわたる経験から得たノウハウを新旧事業に生かし「選ばれる会社」を目指す。
2020年
4月1日
公園運営管理を推進するために社内公募によりパークマネジメント準備室を開設。
2021年
4月1日
パークマネジメント準備室をパークマネジメント推進室へ名称変更。

創業者について

創業者である造園家・高村弘平は、1901年9月21日、10人兄弟の四男として山形県に生まれました。
1915年3月に東京府立第三中学校(現在の両国高校)に進学のため上京するも、兄の都合により2年間で帰郷することとなります。
しかし、この2年間の体験が造園設計家・高村弘平の感性に与えた影響は大きく、独自の観察力や探究心の芽は、この頃に育まれました。例えば、後にコインや切手のコレクターとして収集家の間でも有名になるほど、そのデザインが物語る歴史や地理に深く興味を持ち、自らその背景を調べることで見識を深めていきました。
1926年4月に東京高等造園学校(1942年東京農業大学に統合)に入学し、林学博士・上原敬二(日本の造園学の先覚者で人間が森を作るという国家プロジェクトである明治神宮の外苑建設に参画)のもとで造園を学びました。
高村は当初、造園の道を選んだことに悩みながらも新しい学問の分野にのめり込んでいきました。この時期が将来を決定付ける転機となりました。
1928年4月に東急グループの創始者である五島慶太が経営する遊園地、株式会社多摩川園に入社。これが高村の東急との出会いとなりました。
その後、五島総師をして「東横関連の造園の仕事はすべて高村にやらせろ。」と言わせしめるほどの信頼を得て、高村はさらに仕事に関する勉強の幅を広げていきました。戦後、東急の積極策の一つであったレクリエーション施設の建設に関わり、1952年より二子玉川園の増・改設を受け持ちました。この仕事で高村は、日本一を求める五島総師の気迫から多くのものを学び、造園家としての名を成すとともに五島家との絆を深めました。
1935年12月に株式会社多摩川園を退職し、その後、1943年頃より高村造園株式会社の前身となる高村造園設計事務所として活動を始めました。
1989年9月28日、高村は88歳でその人生の幕を閉じました。当時の社長・澤村は、葬儀の際の弔辞の中で「高村さんは人の期待を裏切るような仕事は決してしない方でした。また、義理人情にも厚く人間関係を非常に大切にする方でもありました。」と述べています。これは仕事をする上で非常に大切なことで、現在の東急グリーンシステムの行動指針となっています。